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高知県友好訪中団旅行記
 平成13年10月5日から12日まで高知県友好訪中団が派遣され、安徽省の省都合肥市、北京市、山西省の五台山や平遥、上海市を訪問しました。今年は橋井会長が初めて安徽省を訪れたこともあり、安徽省人民政府は国慶節の休日にもかかわらず、副省長らが熱烈に歓迎をしてくださいました。また、中国四大佛教聖地である五大山では季節はずれの猛吹雪のため、あわやバスが崖から転落…!?という絶体絶命の危機に遭遇。無事、帰国された皆さんからの報告が届きましたのでご紹介します。


上海外灘から浦東地区を望む訪中団一同
「安徽省の教育と文化」
  橋井 昭六

田維謙安徽省副省長(右から二人目)と懇談
 第一日目は長駆、上海から合肥まで530キロをマイクロバスで走った。蘇州、無錫、南京を通過、夜遅く合肥着。  明けて二日目。私たちは安徽省の省都、合肥の「合肥市少年宮」を訪問した。ここは学校の休みの日、子供たち(五歳〜十四歳)が学校の教科以外の勉強をする所という。例えば書道、バレエ、ピアノ、胡弓、英会話、絵画など学校で教えないものを自由意志で生徒が習いにくる。碁将棋もある。
 変わったところで表現力を養う教室もあった。司会の仕方とか、自分をはっきり見せる方法を学ぶ。歩き方や身振りを教えてもらっていた。保護者も熱心で、親が付いてきている。いわば子供の文化教室みたいなものだが、こういう教養、情操教育が進んでいけば、人間性豊かな国民が育つことだろう。
 こんな「少年宮」が省内に27あると言い、ここが一番大きいと言っていた。建物は政府のもので、経営は授業料がかなりの部分を占めるらしい。丁乃平副主任にご案内いただいた。
 昼食は、安徽省外事弁公室仲建成主任と懇談。
 午後は安徽省博物館へ。黄秀英副館長が大きい声で懇切に案内してくださる。ここのスケールの大きいのにも驚いた。中国はどこもそうだろうが、博物館の構成の奥深さには驚かされる。文字の始まりも、5000年前の収集品が示される。墓室も大きい家くらいのものが石ごと保存され、その精緻な彫刻たるや息をのむばかり。書道の墨やすずりも芸術的彫刻がずらりと並べられている。所蔵20万点のうち、1000点のみ展示。
 その量、年代の奥深さ、意外なジャンルの分け方、多様な種類にびっくりさせられる。重さ8トンの巨大な古代象の骨格にも圧倒された。
 夜は、田維謙副省長さんにお招きいただき懇談。世界の経済動向などを話し合った。世界の経済は今や中国のひとり勝ちと言われている。今年の前半は7.7%のGDPの伸びと言い、マイナスとなった日本とは大きな違いで、都市部の活気の良さには目を見張る。高速道路もどんどん延びている。
 しかしテロ後はどうなるか、などと歓談しつつ、夜は更けた。
 翌日は北京へ−。


デッサンクラス

絵画クラス

合肥市少年宮全景
安徽省合肥市少年宮

チェスクラス

表現クラス

バイオリンクラス

「北京一日」
 宇賀 豊

国慶節を祝う天安門広場
 10月5日から6日の合肥での公式行事を終えて、10月7日、合肥空港発北京行き中国東方航空MU5105便に搭乗する。9時39分、北京空港着。
 早速、バスにて天安門広場に向かう。ちょうど中華人民共和国成立52周年の国慶節の休暇に当たり、多くの人々が集まっている地下道を通り広場に入る。お上りさんも多いようで芋を洗うような混雑ぶりで、記念撮影も思うにまかせない状態である。子ども向けに色々なものを売っており、特に国旗と2008年開催予定のオリンピックの旗を組み合わせたものがよく売れているようだ。天安門に向かって左側に人民大会堂、右側には中国歴史博物館がある。
 昼食後、故宮散策に出る。ここは明の永楽帝が15年の歳月を潰し、1420年に完成。以後、清の末代皇帝溥儀まで500年、24人の皇帝が暮らしていたところである。端門を通って中に入る。太和殿は映画「ラストエンペラー」の即位式で知られる皇帝の儀式会場で、皇帝が座る王座が残っている。中央には波と雲を背景に龍を彫刻した皇帝専用の通路があり、今は通行不能である。その横に大きな金製の防火水槽があり表面を削ってある。説明によると金の甕と思って削った処。実は金メッキだったと、笑えない話がある。
 続いて頤和園の運河に行き、龍の首の付いた遊覧船に乗る。途中、三峡下りにある葛州ダムのような上下流の水位調整用の小さな水のエレベーターを見る。また、釣漁禁止の看板の出ているところで、悠然と釣りをしている人を見かける。何処の国でも同様であると思った。頤和園には東側から入り、仁寿殿を通って昆明湖を眺め、なかなか大きな公園の端を一部見るのみで文昌閣をくぐって外に出る。外はすでに夕闇が迫っていた。
 夕食後、朝陽劇場に入り雑技団の公演を見る。上海の雑技団に一歩譲るとして、両手に4本ずつの棒を持った皿回しなど大人数の演技が多い。最後の14人が一台の自転車に乗って舞台を一周する演技は圧巻であった。
 寝台列車の待ち時間を利用して、京華豪園に足のツボマッサージに行く。百花源という香体浴足剤の入ったぬるま湯に足を入れて、その後、足の裏のツボを圧してもらう。足裏には31のツボがあるそうで、診断治療と保健を一体化した無創傷、非薬物の自然治療法である。足裏診断によって内臓病の有無が判明でき、神経反射を通じて身体内部の環境調節安定とバランスをとり、潜在的抵抗能力と免疫力を高め、体の保健や治療の役割を果たしているようである。確かにツボに当たった時にはヅシンと痛さを感じる。爽やかな気分になってここを出る。
 23時24分、北京北駅発大同行き快速軟座寝台列車K705号に乗車する。4人部屋である。シベリア鉄道よりは振動が少なく乗車感覚は良いが、カーテンが無く寝姿がそのまま見えるのが難である。6時30分、大同駅に無事到着し、朝食後、雲崗石窟見学に出発した。

「大同から五台山へ」
 事務局記

小雨の雲崗石窟
  ここが壮大な石窟と巨大な炭鉱の街「大同」か、と駅から厚い雲を見上げながら呟く。早速、朝食に市内のホテルへ。街中の車が少ない、レストランの客も…。中国最貧困省と言われる厳しい経済状況をガイドの田さんが滔々と説明した。「昔は石炭、今は石油ですね。この石炭の街の運命も同じですよ。」
 大同が北魏に都「平城」として栄えたのは、398年に鮮卑族拓氏が都を定め493年に孝文帝が洛陽に遷都するまでの約100年間である。1500年以上も前に掘り始めた雲崗石窟は、敦煌の莫高窟、洛陽の龍門石窟とともに中国三大石窟としてその名を全国に、いや世界に馳せている。
 冷え込む小雨の中、「莫高窟や龍門石窟よりは保存状態が良い」と満足げな顔で首を大きく振った。最後に石窟仏像のシンボルである微笑みを浮かべた第20窟の大仏を見上げて、中国三大石窟の旅の終着を感じた。
 もう一つの大同の名所は九龍壁だ。現存する九龍壁は北京の故宮博物院と北海公園にもあるが、ここの壁が一番大きい。壁の長さは45.5E、高さ8E、厚さ2E。もとは明の太祖の13番目の子「朱桂」の屋敷跡だが、当時の邸宅も相当な規模だったことだろう。

中国最大の九龍壁
 標高1000Eの初秋の大同を後にして標高2400Eの初冬の五台山へ出発したのは、うっすらと日が差しだした午後だった。丘を越え山を抜けながら4時間のバスの旅が続く。「ここの夏は涼しいですが冬は寒いですよ。零下42度という記録もありますから」とはガイドの田さん。
 なるほど、言に嘘はなさそうだ。峠にちらちら雪が降ってきた。「バスにはチェーンがあるろうね。」誰が想像しえただろう。まさかこの冗談が生死の冷や汗に変わるとは…。いつしか小雪は猛吹雪に変わりタイヤは煙幕のような煙を吐いている。バスの後輪は完全に足をとられ、気がつけば重鎮のN氏を一人乗せたバスは絶体絶命の危機に直面していた。
 会長の脳裏には遭難記事の見出しが、事務局員の心中には海外旅行保険の契約額が浮かんでいた。バスを押す手は凍え、心の臓は弾け、声は枯れ、ついには力つきて雪道に倒れ込んだ団員も…。21世紀最初の生死をかけた日中協力事業は、真に多くの教訓と生涯の思い出を団員の心に刻み込んで終了した。
 五台山は尋常な山ではなかった。浙江省の普蛇山、安徽省の九華山、四川省の峨眉山と並んで中国四大佛教聖地に数えられるが、恐れ多い修行の霊山である。厳格な戒律の中、修行僧には、酒煙、肉食、音楽鑑賞までもが禁じられている。周囲に雪山を配した菩薩頂正殿を参観後、菩薩頂牌楼から一歩いっぽ石段を下りながら台懐鎮寺廟群を望んだ。
 百戦錬磨の中国の旅を自認する団員がぽつりとこぼした。「来て良かったのう、日本で思うちょった五台山とは、一味も二味も違うた信仰の尊さと厳しさがあるよ、ここは。」


危機を脱し、白銀の五台山を上る団員

2001年10月8日 16:50

中国大佛教聖地五台山

台懐鎮寺廟群を歩く

菩薩頂正殿から台懐鎮寺廟群を望む

五台山の主神、文殊菩薩を祀る

「平遥古城を訪ねて」
 三宮 輝男

城内の町並み、世界遺産の中で暮らす人々


城壁から城内を望むと…


偶然出会った結婚式


今から始まる「自転車幌車」の古城巡り
 快晴の五台山。爽やかな風光に見送られ、山西省の省都太原へ。スルーガイド劉さん、現地ガイド田君を含む10名、元気一杯でバス移動。
 3000万人を越す山西省の太原市は名の示すとおり平野の広いこと。「この街は古来、酒と酢で有名。結婚の時には仲人が両家を訪ね、酢の壷の数で財産の多寡を踏んだとか。街路の看板を見てください。たくさんあるでしょう」と現地ガイド田君。
 なるほど、道路傍には「葡萄」「醋」と書いた看板がたくさんある。そこで「酢の字が違う」と質問。「日本では昨日からの酢ですが、中国ではずっと昔から醋です。伝統の重みがありますよ」と田君の答え。中国は「醋」、日本は「酢」。また一本取られた感じ…。
 平遥古城に着きました。煉瓦積みの整然とした長い城壁に思わず「ウム!!」と頷く。場内に入り説明を聞く。紀元前に造り始め、明の時代に拡張し、2000年余りの歴史があり「西安の城壁」「荊州城壁」よりも完璧なまま残っているとの由。壁の高さ12E、幅5E、全長6.2Hとか。
 説明終わり城壁に登る。城内一望、民家の甍が連なり、往時を偲ぶ佇まい。住人は4万人もいるとか。古風然とした家並み。地も土のままや、煉瓦敷きの路地で全体が落ち着いた趣。
 城壁一周の観光は二人乗り「自転幌車」で料金は一人25元。オッチャンが煉瓦敷きの道をゴキゴキと漕いでくれる。アレ?そもそも自転車のペダルは前向きに踏むのに、このオッチャン、時に後ろ向きに漕ぐ。ギヤチェンジがある自転車でもないのに何故か…?結局、解らずじまい。
 長い城壁。心地良い風に吹かれながら、時々、幌を止めて城内の様子や城楼の見事さをカメラに収める。  再びガイド田君登場。「見てください。一つ楼閣が見えるでしょう?あれはイチローです。」まさかプロ野球がここで出てくるとは…。又また一本取られる。
 それにしても、この平遥古城1997年に麗江古城と共に世界遺産に登録されたのに観光客が少ない。周遊中、出会った観光客は西洋人の若いカップルのサイクリングだけ。煉瓦敷きの道を漕いだオッチャンもエラカッタが、乗せてもらった我々の尻もエラカッタ!!
 立派な「世界文化遺産」。もっともっと宣伝をし、大勢の人に見てもらえるよう、山西省の努力を期待する。

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